(注:このブログ、及び私ツタヤはCD・DVDレンタルのTSUTAYA様とは何も関係ございませんので、ご了承ください。)

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今日の夕方、いろいろあって日本三景・松島に行ってました(・∀・)ノ

松島には地震のあった年の夏にも行きました。
で、その時よりは瓦礫も片付いてきれいになっていたのですが…

地盤沈下の影響で、満潮時(18:15頃)には、海沿いの歩道が完全に水没してました。

忘れちゃいけないんだよね。

月の光のもと、そんなふうに思いを巡らせてみました。

IMG_0147.jpg

写真:慰霊碑と五大堂と三日月

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2014.09.30 / Top↑
のっけでつまんないこと書きますが、ツタヤの人生もあの地震で相当変わったと思います。

当時都内でMRをしていた自分は、地震が起こった後、不謹慎にも「今こそアピールチャンス!」と、得意先のお医者さんや薬剤師さんのところに行ってウェットティッシュを配ったり、渋滞を話のネタにしたりしていました。
事の重大さを肌で感じたのは、渋滞が悪化し夜中にやっと家について、テレビをつけた瞬間でした。
あの津波の映像。
今でも思い出すと、鳥肌が立つどころじゃない感覚を得ます。

その後はコンビニ商品やガソリンの配送遅延、原発のニュース…
何を知っても、自分の不謹慎さを懺悔したくなるばかりでした。

同時に、人生いつ誰がこんな悲しい出来事に遭遇するか分からない。ってことを、頭じゃなく感覚的に分かりました。
そして思ったのが、「おれ、こんなことしてていいのかな?」ということ。
今自分が生きてることをもっと大切にしないといけない気がして、独立しようとしました。

結局独立は諦めましたが、そんなわけで、ツタヤにとっては決して風化させてはいけない思い出。
地震から4ヶ月後の2011年7月に被災地をこの目で見て回ったのですが、今日その中の1つの場所に改めて行って来ました。
(記録は 被災地現状レポ のシリーズにまとめてあります。全7回)

・・・・・・・・・・

実際行ったのは、福島県いわき市の北部に位置する「久ノ浜」(ひさのはま)という地区。
(上述の記録だと2つ目に当たります。→被災地現状レポ 2
この地区は原発からは南に30km以上離れており、よく話題になっている北西部の浪江町などと比べると全然放射線の影響は薄いところです。
ただ、海沿いの地域で、津波の被害はモロに受けたところでして、2011年7月に訪れた際は

1107162
(2011.7 海側の堤防から)

このように、ガレキを撤去しようにもショベルカーが足りてない、という状態でした。

あれから1年半以上経って、今朝久ノ浜駅を出て浜辺の住宅街に向かい、最初に飛び込んだ景色は、こういったものでした。

0.201303
(2013.3 海沿い住宅街の入口から)

ガレキは片付いているものの…家を再び立て直す気配すらない。

・・・・・・・・・・

他、以前撮っていた写真と比較できそうな場所が4つあったので、写真を載せますと


<場所1:駅からの入口付近>
1.201107
(2011.7)

1.201303
(2013.3)

<場所2:場所1から少し右に行ったところ>
2.201107
(2011.7)

2.201303
(2013.3)

<場所3:場所2の向かい側(場所1の左奥側の建物)>
3.201107
(2011.7)

3.201303
(2013.3)

<場所4:堤防沿いの建物>
5.201107
(2011.7)

5.201303
(2013.3)

やはり地面のガレキは片付いているものの、そこから先がほとんど手についていない状況だと伺えました。

・・・・・・・・・・

これって、どういうことなんでしょう?

ツタヤの勝手な推測ですが、きっとこの周辺はJR常磐線も通っていて国道6号に面していて、交通の便は悪くはないと思うのですが、それでも過疎化が進んでいる地域だと思います。
正直ツタヤがここで育ったとしたら、高校卒業後もっといろいろあるところに住みたいって思う気がしたからです。
加えて、決して遠くない位置に原発あり、地震の後はより過疎要因が増えたと思います。

それを考えると、避難された方々がそのまま別の場所に映られて、そこで定住することにして、この地を捨てたってことも考えられます。
実際お年寄りの方々は、いわき市街地の方が小売店や医療機関だって充実しているでしょうし、住みやすいと思います。

でも、元々住宅のあったこの地が、今荒地と化して、元々あったコミュニティなども破壊された。
そして2年経った今でも、まだ別の何かが根付いていない。

って考えると、少なくともこの地を見る限り、まだ震災は全然終わってない。
ツタヤとしては、そんなふうに感じました。

・・・・・・・・・・

そんな中で、2組のボランティアの方々をお見かけしました。

1組目は、堤防の上で花を用意されていた方々です。

201303-1

ちょっと忙しそうだったので話しかけなどは出来ませんでしたが、「絆ジャパン」という福島で活動されているボランティア団体のようで、新聞のカメラマンさんも近くで彼らの活動を写していました。

2組目は、無料でそばの提供を行っていた方々です。

201303-3
(荒地の真ん中にあったテント)

201303-4
(頂いたそば)

こちらは地元のお蕎麦屋さんと高校生の方々を中心としたコラボで、先にそばを一緒に打ったりして、ここで炊き出しをしようという趣のようでした。
せっかくミーハー的に横浜から来たのに、お金を落としてこないのは悪だと思ったので、リーダーらしきお蕎麦屋さん店長?に助言して、そこらにあったダンボールで募金箱を作って頂き、そば代に気持ちを乗せて募金してきました。

3月10日。晴れ。
とは言っても、正直いわきの朝は東京や横浜の2月並みには寒かったです。
そんな中で一生懸命こういったご活動をされている方々には、頭が上がりませんでした。

地震の前のありし日々には、きっと戻れない。
でも、被災者の皆様の笑顔は、別の形できっといつか取り戻せる。
お2組の団体さんのご活動を目にして、何となくそう感じることができました。

・・・・・・・・・・

正直ボランティア活動に行くとか募金するとか、口で言うのは簡単だと思いますが、実際ボランティア行こうと思ったら時間合わせるの大変ですし、募金だってこのご時勢自分の生活を削って多額のお金投げるなんてできませんよね?

でも、そこで居直って無関心になるのって、最悪だと思うんですよ。

1番重要なことって「忘れないこと」なんじゃないかな?って思いながら、今回こんなブログを書いてみました。



~おまけ~
福島県の銘菓対決!!

赤コーナー ままどおる(郡山)!!
ままどおる

青コーナー じゃんがら(いわき)!!
じゃんがら

あなたの好みは、( ○ ´ ー ` ● )どっち?
(僕は黒あん好きなのでじゃんがら派です)


~関連エントリ~
2011年7月、地震から4ヶ月経って、福島県・宮城県・岩手県を回ってきました。
被災地現状レポ 1
被災地現状レポ 2
被災地現状レポ 3
被災地現状レポ 4
被災地現状レポ 5
被災地現状レポ 6
被災地現状レポ 7


2013.03.10 / Top↑
実はこのブログ、あの地震がきっかけでやろうと決めたものでした。

パソコンからだと確認して頂きにくいと思いますが、ブログのバックナンバーも震災関連の記事が多く含まれています。去年7月の被災地現状レポシリーズとか特に。よく見れば、ちきりんさんに紹介して頂いた10月の会社を辞めた理由もそうです。

・・・・・・・・・・

あの日のことは、今でも鮮明に覚えています。

14:46、広尾のクリニックさんに行くために近くの駐車場に車を停めると、突然車が揺れだしました。
「地震?突風?」とか思って外に出てみると、今度は地面ごと揺れて、立っていられないほどのものになりました。その時に初めて「あ、大きめな地震だ」と気づきました。
近所の商店街の方々もみんな外に出てきました。

不謹慎にもツタヤは地震を口実に、そのクリニックさんや近くの薬局さんに顔を出し「薬こぼれてないですか?」など言いながらウェットティッシュなど配ったり、安否確認のような感じで大型得意先を回ったりと、地震に乗じて自分のポイントアップを図っていました。
昼の渋谷駅のバス停に溢れかえる人は、むしろ写メを取って会話のネタにしていました。

ことの重大さが分かったのは、17時過ぎ。渋谷駅近辺のクリニックさんの訪問を済ませ、18時に新宿駅付近の大型施設さんであったアポに向かう途中の明治通り。車の渋滞があまりにひどく、普段車では10分少々で着く渋谷~新宿間だったのに、東郷神社や原宿警察署を過ぎたあたりで18時を迎えてしまう在り様でした。歩道を見れば、人人人。こんな道路事情からやっと異常事態ということを認識。
同行予定の上司にもなかなか連絡がとれず、結局18:15頃北参道の駐車場に車を停め18:30頃アポの先に到着。と思ったら、電車が止まっており患者さんで溢れかえっており、職員さんも対応に困っているようでした。

その後先生からは「こんな日によく来てくれた」と感激され長話突入、そこに上司も到着して19時半頃まで話し、帰る頃には、近くを通る甲州街道の車の流れが完全にストップしていました。
そこから北参道の駐車場に戻り、20時頃車を出したのですが…そこから恵比寿に着いたのが0時頃。夕方以上の、車より歩くほうが絶対に早いほどの渋滞。運転しながらパソコンでその日の日報を書いていたくらいでした。

そして駒沢通りの裏道を通り、当時住んでいた学芸大学の家に着いたのが1時過ぎ。クローゼットが倒れており、自身の規模を改めて感じたところで、とりあえずテレビをつけてみたところ…あまりの衝撃に背筋が凍りつき、でも、テレビから離れることができませんでした。

家を押し流す大津波。

気仙沼や千葉での火災。

リアルタイムで増えていく死者・行方不明者数。

こんなものだったと知らず得意先のウケを取ろうとしていた自分がいかに不謹慎であったかということ、そしてそれ以上に、この世の幸せがいっぺんにかなり奪われたこと、それに対して自分という人間がいかに無力であるかということを思い知らされました。

それ以来数日、募金先をまとめてみたり、節電してみたり、とにかく気が狂ったようにやりました。

・・・・・・・・・・

…とこんな感じに、個人的には去年の地震は、この世界に対する自分の無力感を思い知った強烈な出来事として、心に残っています。
今でも特にフラッシュバックします。特に津波の映像が流れると。
ある意味PTSDなのかもしれません。でも、多分本音は忘れたくないんだと思います。自分の無力を。

がれきの山はどうなっている?

家を、雇用を奪われた方々は、結局いまどうしている?

原発問題がいまだ収束しないのは技術的に仕方ないとして、だったら被災された方々の「家があるのに戻れない」とかっていう生殺し状態はどうなっている?

被災者の自殺は?

1年経ったけど、きっとまだ、区切りをつけられるほど何か進んだわけではない。

そして自分も何か出来たわけではない。

でも、諦めたくない。諦めて無関心になることだけは絶対したくない。
決して風化させてはいけない。

・・・・・・・・・・

「今我々に出来ることをする」って表現があります。
金がある奴は金を出せ、知恵がある奴は知恵を出せ、体がある奴は体を出せ、何もない奴は、元気出せ!って。

これと関連するかは分からないのですが、僕なりに1つ思ったことがあります。
やっぱり、あの日奪われた幸せは、僕たちで取り戻すしかないって。

何ていうか、被災された方々、命を落とされた方々の分まで、僕たちは幸せにならなきゃいけないんだと思うんです。

それがこの世界の幸せの総量を維持・増量させる唯一の手段だって。

今このブログを読んでくださっている皆様には、少なくとも命があります。
そして、今この瞬間よりも幸せになるための「可能性」だってあるはずです。
それを無駄にするのは、面目が立たないと思うんですね。

今ある命、今ある可能性、絶対に無駄にしず、貪欲に今以上の幸せを求めて生きませんか?
募金だとかボランティアももちろん重要ですが、それ以前にまず自分が妥協しず幸せになりましょうよ。
出来るだけお金や労力と一緒に本気の笑顔を提供してあげましょう。仮にお金も労力も提供できなくても、本気出して笑顔になることはできるはずです。

僕は引き続き、わがままに生きていきます。
それを誓った2回目の3.11でした。
2012.03.12 / Top↑
以上、被災地現状レポでした。
実際の被災地は、原発被災地・津波被災地に関わらず、テレビやパソコンで映る以上に悲惨な状態でした。

・・・・・・・・・・

今回いろいろ見て回って思ったのが、一番大事なのは募金だとかボランティアだとか以前に、忘れないこと。3.11の出来事だとか何を思ったかを忘れないこと。ということ。

今回見て回っただけでも、海沿いの市街地の壊れぶりを見るに、完全に復活するには最低5年はかかるだろうと感じられました。
原発に関しては、放射線を体で感じられるわけでないので分かりませんが、収束の見通しが立っていない状況であることは恐らく間違いないでしょう。
そういった意味で、復興するまでには何年もの期間がきっと必要になります。

ただ、人は残酷なくらいに忘れていく。マスメディアもいちいち取り上げなくなっていく。
いつか歴史の教科書に出てくるような「客観的」な出来事として捉えられるようになり、今のような募金やボランティアの熱も冷めていく。

だから最低、「客観的」ではなく自分のこととして、あの日感じたことを忘れないこと。
これが一番重要なんじゃないかって感じます。決して簡単ではないのだろうけど。

・・・・・・・・・・

最後にこの写真を載せて、今回のレポを終わらせて頂きます。

1107187

希望の松@陸前高田(小さくてすいません)
海沿いの松原がことごとく津波でなぎ倒された中、1本だけ残っためちゃくちゃ大きい松。


~関連エントリ~
2011年7月、地震から4ヶ月経って、福島県・宮城県・岩手県を回ってきました。
被災地現状レポ 1
被災地現状レポ 2
被災地現状レポ 3
被災地現状レポ 4
被災地現状レポ 5
被災地現状レポ 6
被災地現状レポ 7


2011.07.30 / Top↑
17日3時過ぎ。津波被害が特にひどかったと言われる陸前高田市に着きました。

1107183

確か海から近い場所にあったアパート。
5階建ての、4階までは壊れていました。
4階が破壊されるということは、波の高さ自体はきっとそれ以上。10mを越えていたのでしょう。

でも建物が残っているだけ、まだ良かったのかもしれません。
市街地は海に面していたのですが、今回見て回った中でも特にひどいものでした。

1107181

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見渡す限り、何もない。
あるのは瓦礫が撤去された跡と、その瓦礫が積み上げられた山のみ。

この日行動を共にしていたTさんはこの周辺を担当していた営業マンで、あの日も地震が起きた直後までこの辺りにいたようなのですが…
そのTさんでさえ、何がどこにあったか分からない。それくらい原形を留めないものだったようです。

後で地図を見て分かったのですが、この陸前高田市、震源からは宮城県と比べれば遠いものの、広田湾がちょうど震源の方に、ちょうど津波を真正面から受ける形で開いていました。

・・・・・・・・・・

なおTさん曰く、市街地東部の広田半島はさらに高い波に襲われたようでした。
実際にその広田半島にも言ってみたのですが…

1107184

ちょうど半島の根元にある、JR小友駅。
駅舎はもちろん、駅前の建物も木端微塵になっておりました。

この地域では震源からの津波と、広田湾から逆流した波が陸地でぶつかり合い、「水合」という現象が発生していたようです。
この現象によって半島は一時的に海で分断されたとか。

・・・・・・・・・・

そして大船渡市。

1107185

こちらは陸前高田と比べれば、原形を留めた建物がけっこうありました。
現地を知るTさんも、「(陸前)高田と比べればまだ大丈夫そう」と。

この大船渡は湾も奥に細長い感じで、かつ見た感じ市街地らしきところも海沿いに集中しておらず、初見のツタヤにも浜磯街道(旧45号線?)沿いを中心に都市としての機能はまだあるように感じられたのですが…

1107186

それでも海沿いはこの有様でした。
奥まった場所に港があるとは言え、今回の津波の被害を逃れることはやはり出来なかったようです。


続く(次回ラスト)


~関連エントリ~
2011年7月、地震から4ヶ月経って、福島県・宮城県・岩手県を回ってきました。
被災地現状レポ 1
被災地現状レポ 2
被災地現状レポ 3
被災地現状レポ 4
被災地現状レポ 5
被災地現状レポ 6
被災地現状レポ 7


2011.07.23 / Top↑
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